昭和12年 碩心会の誕生をたどって

碩心会発足当時の思い出

(碩心会「吟道月報」 昭和47年9月号より)

 大野孤山先生との吟の道での出会いは、先生との一面識があってからやや後のことであった。先生の御子息と私の弟(た0た独りの弟でしたが大学在学中病死)とは逗子開成中学校の同期で成績もクラスで、 一、二を争そうなかであったが、特に親しくよく私の家(当時小坪)に来ては一緒に釣りを楽しんで居た。そんな関係でお父さんの孤山先生とは一、二回会った程度の間でしかなかった。 それがある夏の夜、海岸で詩吟のタベが催され、その時聴衆の中に居られた先生に私が詩吟をやって 居る事がわかり、それから先生と百年の知己の様な間柄となってしまった。(その時知ったことは、孤山先生は誰にも師事した事はないが韻読から来た独特な詠法で私の吟心を感動させたことと、三度の食事より詩吟が好きだと言う事であった。) それからは、毎晩の様に海岸に誘われては共に吟じ合った。先生は漢文を子供の頃から読み、特に漢詩は堪能であったのでどんな詩でも暗誦して居られたが、夜の海岸は暗く本を見る事は出来ず、初伝から中伝になる頃の私には随分苦労したもので、それが今の私には詩の暗誦が出来るよい試練となったのであった。 そうして私の吟道の歩みも、天下の岳風先生の御指導と大野先生の独特な詠法(韻読も含めて人の胸に喰い入る様な吟じ方)とに心技共に育てられ、特に詩吟の価値は、上達する事のみではなく精神の修錬に重点を置かねばならない事を知り、その目標に向かって進んで居た。その様な未だ自己の修錬に精一杯の時ではあったが、大野先生の要請もあって、当時市役所の人々、青年団の諸君らを中心につくったのが「碩心会」の誕生であった。 なんの道でもそうであるが、その道に入ったからにはその道の最高を極める事が終局の目的であらねばならす、吟道を博く又深く求め様と「碩心」と選び、大野先生も我が意を得た名だと高く評価して下さった。 「碩心」この名は、今は亡き恩師「木村岳風先生」も知って居られ将来を期待して下さった。又孤山先生も衷心からその成長を望んで居られた。 今、会長三井先生、師範根岸先生を中心に会員皆さんの吟道に対する熱意により大きく発展したことは、名付け親となった私の喜びは申すまでもなく、岳風先生、大野先生の御魂もさぞかし満足して下さって居る事でしよう。更に健全な発展を祈ってやみません。